「峠」タグアーカイブ

「酒池肉輪」キャンプツーリング(3日目)

 夜中の3時頃にフライを叩く雨の音で目が覚めます、今日は夕方までには桜井に帰らなくてはならない、それも高見峠を東側から越えるのを避けて、遠回りになる伊勢本街道経由で約100キロ、6時には出たい処なのですが。雨雲レーダーを見ると高見山(台高山地)の方から細かく雨雲が東へ流れてきて、断続的に雨が降ってくる様子ですが、今ここでどうこう考えても天気だけは仕方がありませんので、少し明るくなるまでもう一寝入りするしかありません。
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道路元標蒐集サイク(石川篇)

 「18きっぷ」はまだ残っているのですが、まとまった休みがないので日帰りの予定で北陸へ、石川県南部の道路元標を巡ります。桜井から「18きっぷ」だけで日帰りしようしても、現地での滞在時間が5時間程しか取れないのです、少しでも早く着こうとJR奈良駅まで20キロ余りを自走する事に、奈良05:46→0647京都07:00→0807近江今津0814→0946 福井10:15→1056加賀温泉のスジで、桜井始発より1時間早く着きます。未明の上街道を走るのですが、そこは走り馴れたる道、その上最近奈良市域に入ると街灯が滅茶苦茶明るいのです。
 加賀温泉駅からスタートする事にしたのは「いしかわ里山里海サイクリングルート」のモバイルスタンプラリーのポイントが駅前にあると云う理由からなのですが、北陸新幹線延伸で新駅となる加賀温泉駅は現在仮駅舎で、ホームから改札まで結構歩かされます。バスの降車場のベンチがお誂え向きだったので早速輪行支度を解きます、先日の事があるのでペダルの取り付けは慎重に。
 まずは江沼郡の庄村道路元標分校(ぶんぎょう)村道路元標を、それぞれ住吉神社と菅原神社の前にあります、明日はその住吉神社の秋祭り、準備が始まっています。今日は曇りの予報を頼りにして出掛けてきたのですが、なんとカンカン照り、でも季節はもう秋なんですね。
 「いしかわ里山里海~」のポイントの自動車博物館を経て山あいへと入って行くとお天気が曇り模様に、粟津温泉近くのローソンで補給の後、県道163号瀬領粟津線、県道161号大杉長谷線と継いで県道43号丸山加賀線へ、2009年6月20日大杉谷村道路元標まで往復しているのですが記憶に残っていません。大杉谷川に沿って緩やかに登って行く走り易い気持ちの良い道が続きます、連日の猛暑に辟易としていただけに曇り模様が過ごしやすく、蝉時雨の道を快走していたのですが、些か雲行きが怪しくなってきました、時折パラパラと。帰りの輪行に万が一泊まりになった場合に着替えを一式は持って来ているのですが、雨具の用意はしていません。
 ただ雨雲レーダーの予報は心配なさそうなので、二度ばかり雨宿りをしつつ先へ進みます、牛ヶ首峠から国道416号線経由で新丸村道路元標を経て、五百峠を小松市街へ下るつもりでいるのですが。
 道が峠道らしくなってくると雨足も強くなってきて本降りに、幸いバッグ類のレインカバーはあるので、荷物は濡らさずに済んでいるのですが、今回はロード故にお尻はビチョビチョ、替えのない靴を濡らしたくないので足を付けずに頑張って登ったのですがドボドボに、結局は無駄な抵抗だった様です。
 1419 標高420mの牛ヶ首峠に到着、峠は国道416号との三叉路になっていますが、右折しても現在は行き止まりです(福井県側へは長年R416の未開通区間だったのですが、今年9月9日に開通するそうです)。残念ながら雨宿りの出来そうな場所もなく、左折して新丸村道路元標へ下る事に。新丸村は1956年に小松市に合併編入され、現在ではかつての村域は廃村同様の状態に、その道路元標ですが、目標物も何もない道端に建っていて、予備知識が無ければ通りすぎてしまう様な場所なのです、幸い見落とす事はなかったのものの、帰宅後写真を確認すると真っ暗で何も見えません、どうやら撮影モードを選ぶダイアルが間違った位置に動いていた様です、いつもならモニターで確認をしたり、スマホのカメラで1枚位は押さえておくのですが、今回は雨の中で何れもしなかったのが。
 道路元標から更に下ると分岐があり左への国道は五百峠へと登り返し、右は大日川に沿って下ります。牛ヶ首峠へ入った辺りから流石のdocomoも圏外で、五百峠の標高とか情報が得られません、スマホ以外にGARMINがありますので、現在位置や標高は把握していますが、この雨の中幾ら登り返さなくてはならないかが読めません、右へ行けば大日川ダムを経て下り基調のまま北陸鉄道石川線の終点である鶴来駅まで行く事ができます。あと「いしかわ里山里海~」の5つのエリアの内残る「白山手取川ルート」を一つだけでもゲットするには鶴来へ下る方が確実なのです。五百峠を越えて尾小屋鉄道の跡を見てみたかったのですが、この雨と残り時間を考えると右へ下るのが最善の選択かと。
 大日川ダム湖畔、雨も収まりと云うか路面は乾いています、雨は峠前後だけだったのかも。ただ湖畔でもまだ圏外、それな湖岸道路にしては結構アップダウンがあって些か参ります。ダムの堰堤まで来てようやくネットに繋がる様になり、鶴来駅までの正確な距離と帰途に就ける最終時間を調べる事ができます。新西金沢駅でJRに乗り換える為、小松へ下るのに比べると遠回りになるので、鶴来駅1651発が最終、それも桜井線の最終が早いために「18きっぷ」のままで帰れるのは奈良まで、結果的に京都から940円払って近鉄で帰る事になりそうです。
 大日川ダムから約30分旧鳥越村へ、行きがかりとは云え鳥越村道路元標を、ここから2001年10月以来のR157へ、実はこれより南R157沿いに未収の道路元標が2基残っているのが…  鶴来駅までは後12キロ。
 鶴来駅まで後少し、「おはぎ屋」の暖簾が気になり覗いてみたい気持ちを押さえて、鶴来駅へ急ぎます。




 「能登半島ツーリング」の折の分に加えて今日4ヶ所、時間があれば後3つ位は回れたのですが、計20ヶ所、全68ヶ所の1/3にも届きませんが、パーフェクト賞以外の抽選権は手にしました。
 結局、手取川流域に入ると再び雨が、それでも時間的には余裕で鶴来駅に到着、輪行支度を整えて予定の1651発に乗車、→1717新西金沢/西金沢1721→1853福井1859→1949敦賀1952→2044米原2054→2148京都/近鉄京都2201→2300大和八木2304→桜井2311と日付の変わる前には無事に帰投しました。本日の走行、奈良駅までの自走20.3キロを含めて88.6キロ也。

今日走らんでいつ走る

奈良県吉野郡吉野町平尾 津風呂湖畔木ノ子広場

 先日から続いている鬱陶しいお天気、週末からは台風も接近して雨模様はまだ続きそうで、一向に乗れそうにありません。ただ今日午前中は少し晴れ間もでるとかで、夕方までは雨も心配なさそうな按配ですので「今日走らんでいつ走る」とばかりに特に目的をも決めずに走り出しました。
 まずは明日香から芋ヶ峠を目指します、路面は先日からの雨でかなり水が出ています。秋も深まり虫の声も聴こえなくなり、本当に静かな山道です。今年13回目の芋ヶ峠、栢森から芋ヶ峠を越え吉野町千股まで出合った車は1台だけ。
 千股を東に取り佐々羅から県道28号吉野室生寺針線の旧道を行きますが、今日は何の用意もしてませんので、現県道に出る手前のお店であんパンとチョコレートを買い求めます。吉野町山口、かつては龍門村と呼ばれた地域ですが、郵便局や農協こそあるものの、何軒があったお店は廃業してしまい今ではここが唯一のお店です。
 小島峠を越えて旧中龍門村の香束(こうそく)、そのままと云えばそのままですが難読ですね。少し行くと津風呂湖に抜ける分岐があります、津風呂川の支流柳川沿いに湖畔まで下る事ができます。津風呂ダムの対岸へ車で渡るには東側の入野(しおの)または此処から入る事ができます。久しぶりなのでここへ入ってみる事にします。


 ダムの対岸へはいつも平尾から吊り橋の「みかえり橋」で渡るので「みかえり橋」までの動画をアップしておきます、途中「平尾橋」が渡れる様になっていたので往復してみました。なお津風呂湖には車の渡れないつり橋が三つあります。

 お馴染みの「みかえり橋」を真横から望む事ができます、紅葉の頃には映えるかも知れませんね。
 ダムの対岸路は車が離合困難な道が10キロ近く続きます。山仕事と釣りの車しか入ってきませんが、ブラインドカーブが多いので注意。
 入野まで抜けたものの、雲行きが少々怪しくなってきたので、先へは進まずに県道256号入野河原屋線をダム側へ戻る事に。
 吉野川河畔に下り、左岸の県道を一路西へ、椿橋で再び右岸へ渡り壷阪峠を越えて帰るいつものコースへ。
 
 高取町の町並みでは春の「町家の雛めぐり」に続いて「町家のかかし巡り」が行われています。電気の検針のおばさんかと思いきや、後ろ姿がリアルなかかしでした。

 お天気もどうにか持ちそうなので、橿原市のお馴染みローディ御用達の食事処「よろづ」へ向かい遅めのお昼を。15時前には無事帰宅、しかし暫く走れそうにない天気が続きますね。本日の走行73.5キロ。

 

御斎峠なのか御斉峠なのか

 先日の「NLC4’season 春のサイク」の帰りに一年ぶりに越えた「おとぎ峠」、滋賀三重県境として上野盆地の展望が素晴らしい標高570mの峠、古来伊賀と甲賀と分かつ峠として司馬遼太郎の小説「梟の城」の舞台となったり、本能寺の変の折に徳川家康の遁走ルート「伊賀越」として伝わる、歴史的にも由緒のある峠です。私が始めて越えた頃は滋賀県甲賀郡信楽町と三重県上野市の境界でしたが、現在はそれぞれ甲賀市と伊賀市となっています。写真は現在の車道峠より少し上野側に下った処にある「御齋峠跡」の石碑。
 その「おとぎ峠」を行くと峠名を記したものが2つ、切り通しになっている車道峠の案内板「御斉峠」と記され由緒が書かれている、もう一つは少し上野側に下った処にある三重県知事の書になる「御齋峠跡」の石碑、さてこの違いは。まず大前提として「斉(セイ)」と「齋(サイ)」はルーツの異なる別の字でして、なかんずく「齊」は「斉」の旧字体、「齋」は「斎」の旧字体となります。「斉」は整えるとか、揃える、並べると云った意味を持ち、中国周時代の国「斉」との意味があります。対して「斎」は「ものいみ」「神仏を祭るときなどに飲食や行為を謹んで、身の汚れを去る事」と云った他、同様の意味に多く用いられます、「斎王」「斎宮」「斎場」と云った風に。いわゆるさい藤さんの「さい」は概ね「斎」または旧字体の「齋」であり、「斉」を用いるのは意味の違いを無視して誤用して略したものと考えるべきでしょう、なかには私は「斉藤」だと主張する人もいる様ですが、斎藤氏のルーツを考えると「斉藤」はなく、登記時の誤字であってもひとたび登記されてしまえば、それを正しいとする原則が準用されているものだと思われます。
 さて話しを戻して「おとぎ峠」に当てはめる字はどちらかと云う事になりますが、案内板にあります鎌倉時代の夢窓国師の逸話からすると「斎」を当てはめるべきかと思いますが、辞書によっては「斉」にも「斎」の字と同様に「ものいみ」の意味を含む熟語「斉衰」「斉宿」等などを例としてあげているものがあります、どうやら「斎」と「斉」の誤用は「さいとう」さんだけではなく、結構根の深いものがあるのかも知れません。ただ家康の「伊賀越」関連でこの峠を「音聞(おとき)峠」としているものがあり、夢窓国師どころか後年になって音を当てはめた可能性もあります、しかし「斉」を「とき」或いは「とぎ」とするには問題が残ります。言葉や文字の意味成り立ちに無知ゆえ無頓着ゆえの誤用濫用、なにか自転車の事を「チャリ」と云う人に通ずる処がありますね。
 私としては「御斎峠」または旧字体を用いた「御齋峠」に軍配を上げる事にしますが、この事を調べて行くとんでもない事に気付かされます。
 そうなんです、それぞれの旧字体には「Y」のものと「了」のものがあって、どうもadobe-japanでは両方が採用されている様なのです。この辺りJISの考え方とadobeのスタンスの違いが成せる事なのでしょうが。さて似ていて非なる「Y」と「了」、象形文字まで遡るとこの部分は「齋」と「齊」では異なっているのです、その辺りを調べて行くと「誤用」なのか「混在」なのか判らなくなってしまい、それ以上突き詰める事は諦めました。

 余談ですが御斎峠の北にはかつて多羅尾代官所の仕置場(処刑場)があり、また月ヶ瀬村女子中学生殺人事件の死体遺棄現場だったりと、何かと曰くの多い峠でもあります。