道路元標探索サイク(その2)

水曜に続いて今度は京都府加茂町から信楽経由で滋賀県日野町へ向かい、三重県伊賀市まで南下し近鉄で輪行して帰ってくる計画、経路上には瓶原村、東和束村、湯船村、日野町、東柘植村、府中村、上野町の道路元標の存在がネット上で確認できています。
 また今日は天五さんが御池林道へ行く予定で貴生川駅9時半集合とか、ただ桜井から自走ではかなり厳しい時刻ですが、あわよくば貴生川から日野辺りまでならほぼ平坦なコースなのでご一緒できるかなと暗い内から出発します。

 桜井から上街道?奈良阪?大仏線跡と走り加茂町へ、経路周辺にはまだ丹波市町、奈良町、木津町が未収なのですが手近な場所ですし朝も早いので今回はパス、瓶原(みかのはら)村元標のある恭仁(くに)小学校へ、R163を走らぬようにとして裏道に入って少し迷ってしまいてこずります、現在元標は小学校の敷地内に移設されている様ですがどうにか撮影は可能な位置にありました、しかし学校の敷地内に立ち入るのがはばかられると云う嫌なご時世になったものです。 東和束村は旧道沿いには違いないのですがその旧道が錯綜していてうっかりすると見落としてしまいます。 湯船村は現在の県道<5>木津信楽線沿いなのですが、信楽に向かっていると死角になっていて見事に行き過ぎてしまい1キロ程引き返す事に。

FI2612538_2E.jpg湯船村元標を後にし京滋県境の無名の峠まで少し頑張って走ります、峠の標識も既に「甲賀市」です。 車を来ないので道の真ん中寄りで写真を撮っていると、背後に気配が... 咄嗟に左に寄せると、2人のローディが私をはさむように追い越して行きました(^_^;)
 ここで時刻は既に9時11分、’逆立ちしたらもっと無理’なのではっきり諦めてのんびりと日野へ向かう事とします。

FI2612538_3E.jpg長野村(大正15年町制、昭和5年信楽町に)道路元標があっただろう信楽町中心部を探索して国道307号線を水口から日野町方面へと向かいます。

←丸ポスト発見、これって売り物なんでしょうか???




FI2612538_4E.jpg信楽高原鉄道の紫香楽宮跡駅に立ち寄るとまもなく列車の時刻、あの正面衝突事故の慰霊碑前まで移動して写真を撮る事に。
 30数年前、信楽高原鉄道が国鉄信楽線だった頃に私が撮った写真、信楽線は加茂へと繋がる計画もあった経緯から長い間、加茂駅から国鉄近城線としてバスが走っていました、現在も和束までは奈良交通が後を引き継いで走っています。
 ここから日野町へは国道307号線一本なのですが何度も走っているし車も多いので工事中の第二名神の下をくぐり県道<53>牧甲西線へ入り未踏のアセボ峠を越えます、少し期待したのですが旧甲西町側の展望は植生に遮られて全くありません。
 三雲へ下り横田橋で野洲川を渡り旧東海道を東へ、旧柏木村と旧水口町を探索してから予定の日野町へ入ります。

FI2612538_5E.jpg近江鉄道日野駅前から旧街道へ入り平和堂で補給、以前はここの平和堂の入り口横にはマグドナルドがあったのですが... 
 旧街道から県道<41>土山蒲生近江八幡線が土山方面へ分岐する三叉路で予定の元標をゲットしますが、どうも雲行きが少し怪しくなってきます。
 日野町内は史跡や古い街並み、案内板やコースを整備していますが、週末のわりにはハイカーや観光客の姿はあまり見かけません、近江八幡や彦根、長浜と違いJRが通っていないですからね。 まあ私も日野と云えば’日野菜’しか思い浮かびませんが...

FI2612539_1E.jpg日野商人街道と呼ばれる旧街道を旧西大路村域を探索しながら東へ、車も少なく自転車には走りやすい道なので国道477号線を平子峠へ向かうにはお勧めのルートです。 音羽から県道<182>西明寺水口線で鎌掛(かいがけ)峠を越えて旧鎌掛村域へ、ここでも公民館で訊ねたりしみましたが、新たな道路元標は見つける事はできませんでした。

↑裏側に昭和12年と記された新しい道標が...

FI2612539_2E.jpg鎌掛から県道<41>土山蒲生近江八幡線を南へ、笹尾峠の西側を越える無名の峠ですが、古い溜池の傍を通ったりして雰囲気の良い道で、私の好きな道のひとつです。
←鎌掛から峠に向かって

 土山から大原ダム経由で油日へ出る計画でしたが雲行きも怪しいし時間も押しているので県道<24>甲賀土山線と県道<4>草津伊賀線で柘植へ向かう事に、未収の倉歴(くらぶ)越をゲットする為に旧道へ入ろうとしますが、現在の県道が高架でJR草津線を越えているのに対して旧道は線路で分断されていててこずってしまいます。 とにかく倉歴越まで少し登り返す事に。

FI2612539_3E.jpg加太越え大和街道沿いに復元された里程標とともに建つ東柘植村道路元標をゲットして、旧街道を西へ...

←西柘植村道路元標が建っていただろう場所はこうなっていますが、元標は見当たりません。




FI2612539_4E.jpg府中村道路元標が建つ佐那具に着いた頃にはすっかり真っ暗に。









FI2612539_5E.jpg伊賀上野?御斉峠「牛タンとろろ」ツーリングの最後の休憩ポイントでお馴染みの佐那具駅に立ち寄った処で雨が本降りに、上野市街へ走って後数キロウロウロすればセンチュリーランになる距離なのが残念ですが、雨の中暗い道を走るのもとここから輪行で帰途に就く事に。
 しかし未知の道路元標を見つけ出す事は今回もできませんでした。

本日の実績、道路元標×6、峠×3、丸ポスト×6、走行距離151.1キロ。

道路元標探索サイク(その2 続き)

日野商人街道と呼ばれる旧街道を旧西大路村域を探索しながら東へ、車も少なく自転車には走りやすい道なので国道477号線を平子峠へ向かうにはお勧めのルートです。 音羽から県道<182>西明寺水口線で鎌掛(かいがけ)峠を越えて旧鎌掛村域へ、ここでも公民館で訊ねたりしみましたが、新たな道路元標は見つける事はできませんでした。

↑裏側に昭和12年と記された新しい道標が...


鎌掛から県道<41>土山蒲生近江八幡線を南へ、笹尾峠の西側を越える無名の峠ですが、古い溜池の傍を通ったりして雰囲気の良い道で、私の好きな道のひとつです。
←鎌掛から峠に向かって

 土山から大原ダム経由で油日へ出る計画でしたが雲行きも怪しいし時間も押しているので県道<24>甲賀土山線と県道<4>草津伊賀線で柘植へ向かう事に、未収の倉歴(くらぶ)越をゲットする為に旧道へ入ろうとしますが、現在の県道が高架でJR草津線を越えているのに対して旧道は線路で分断されていててこずってしまいます。 とにかく倉歴越まで少し登り返す事に。


加太越え大和街道沿いに復元された里程標とともに建つ東柘植村道路元標をゲットして、旧街道を西へ...

←西柘植村道路元標が建っていただろう場所はこうなっていますが、元標は見当たりません。


府中村道路元標が建つ佐那具に着いた頃にはすっかり真っ暗に。


伊賀上野?御斉峠「牛タンとろろ」ツーリングの最後の休憩ポイントでお馴染みの佐那具駅に立ち寄った処で雨が本降りに、上野市街へ走って後数キロウロウロすればセンチュリーランになる距離なのが残念ですが、雨の中暗い道を走るのもとここから輪行で帰途に就く事に。
 しかし未知の道路元標を見つけ出す事は今回もできませんでした。

本日の実績、道路元標×6、峠×3、丸ポスト×6、走行距離151.1キロ。


瓶原村道路元標(京都府相楽郡)

相楽郡瓶原(みかのはら)村は昭和26年に当野村とともに加茂町に編入された、瓶原の地名はそのままでは残っていない様である、ただ幼稚園が美加ノ原と字を当てて名付けられている、確かに幼稚園に難読地名をそのまま付けるのもなんですしネ。 なおゴルフ場の「美加ノ原カンツリークラブ」は木津川をはさんだ対岸の現在の木津町と加茂町に跨った場所にある。


道路元標は恭仁(くに)小学校正門?を入ってすぐの左側に道路に面して建っているので、正面側を撮影するだけなら柵越しに見えるので困る事はない。 たまたまこの日は加茂町の行事で構内のトイレとかが開放される様なので、早朝でなければ裏面を確認する事ができたかも知れない。


湯船村道路元標(京都府相楽郡)

相楽郡湯船村は昭和31年に和束町に編入された。


元標は県道<5>木津信楽線に面した元の小学校跡と思われる場所に建っている。


事の経緯は判らないが、何故か裏面に「木津町道路元標」とある、但し相楽郡木津町には今も木津町道路元標は存在している。


日野町道路元標(滋賀県蒲生郡)

日野町は明治22年の町村制施行時から町であったが、昭和30年に周辺6村と合併し現在の形となった。


元標は旧街道から県道<41>土山蒲生近江八幡線が土山方面へ分岐する三叉路、興仙寺門前にあるが、塔頂の形状が角錐状になっていて、同じ滋賀県に現存する大津市、木之本町の省令に従った形状とは異なる。


裏面には加工された穴が... 塔頂の形状からも大正時代に建てられた道路元標そのものではなく模して再現されたものかも知れない。 滋賀県にこの形状の元標が他にあるかどうかが興味深い。


ところで旧信楽町と旧水口町で見つけた「県道路?」と記された石標、道路元標より一回りは小さいが塔頂は角錐状である。


東柘植村道路元標(三重県阿山郡)

東柘植(つげ)村は昭和17年に柘植町となり、昭和34年に春日村と合併し伊賀町となった。 平成16年には上野市、他の阿山郡の町、名賀郡青山町と合併し伊賀市となり、阿山郡と名賀郡は消滅した。


元標は伊賀越え大和街道の三叉路に明治の里程標を模して再現した木製の標柱と並んで建っている。


道路元標探索サイク

今回は未知の道路元標を求めてR166を高見越で松阪方面まで走ろうと企て、色々と下調べをして出掛けてきました... もちろん不発に終わる可能性もあるので若干ヘキサ蒐集や旧街道や峠漁りもプランに盛り込んでいますが(^_^;)
 朝東の空が明るくなりかける頃に桜井を出発、と云っても夏至の頃と比べると1時間以上は遅くなり、最初の難関西峠も車が多くなってくるのが憂鬱です、従って伊勢方面へ足を伸ばすのはどうしても5月6月に偏ってしまうのですネ。

FI2612535_1E.jpg 西峠を5時半、菟田野松井橋のローソンを7時、宇賀志村高見村の道路元標をゲットしてから、今日は気分を変えて旧木津(こつ)トンネルまで余分に登り、高見登山口のバス停前で大休憩して高見トンネルを目指し、トンネルを抜けたのは丁度9時、「平成の大合併」と云う愚行で高見トンネルを抜けると今や三重県松阪市、高見越えを下った最初の旧行政村は「波瀬(はぜ)村」です、新しいR166が村を貫いていて今では郵便局やJA等の施設も新道沿いにあり、旧い集落も少し判りにくい位置関係になっています。

FI2612535_2E.jpgさて「道路元標」ですがネット上で公開されている「大正9年4月1日三重県告示第151号」の写しによると「波瀬村 大字波瀬字町182 小学校前」となっていて尋ねてみると、国道166号沿いにある現在の波瀬町小学校は元の中学校で、元は集落の奥まった処に小学校があったとの事、 小学校跡はすぐ見つかりましたが肝心の元標は見当たりません、ただ小学校から少し下り旧街道が直角に折れる十字路に写真の「里程標」とおぼしき立派な石柱が建っています。 この「里程標」は石製の大きなもので各面に「距津市元標七拾五粁四九壹」「距松阪元標五拾六粁八〇〇」「奈良県界六粁壹〇九」「距川俣村大字七日市拾三粁〇九〇」「昭和三年三月 三重県」とあり「波瀬村」とはありません。 もちろん大正道路法による「道路元標」とは異なる様式ですが、明治時代の「里程標」にしては「昭和三年三月 三重県」は腑に落ちません。

FI2612535_3E.jpg波瀬村の旧い街並み、現在の国道からはちょっと想像できない街並みです、他所者や車も入ってくる事もなく、丸ポストも残っていてタバコの自販機と宅急便の幟が無ければタイムスリップしてしまった様な感覚です。
 国道166号線を東にとり、森村元標の所在を示す「大字森字不殿1-6 辻堂橋東詰」を郵便局で尋ねるとその橋は今では蓮ダムの底に沈んてしまったそうです(現在の辻堂橋)。 川俣村元標の「大字栗野字池ノ添田156-2 役場前」は現在の松阪市役所出張所の向かいとの事で出張所でも尋ねてみますが見つける事はできず、出張所の西隣の食堂のご主人が戦後川俣村役場に勤められていたとの事で訊ねて貰いますが元標には記憶がない様でした。

FI2612535_4E.jpg川俣村域を後にして赤桶(あこう)から未踏の和歌山街道珍布(めずらし)峠へのコースをとります、櫛田川は南側へ蛇行し険しい渓谷となっているためにショートカットでもないのですが旧街道は山越えとなっている様です。 写真の様な雰囲気の良い道が続き、幾つか旧跡の案内板もあり、一応は舗装路なので自転車にはお勧めのルートです。

↑ガードレールも電柱もありません、こんな素晴らしい道がまだ残っているのは感激ものです、欲を云えば櫛田川の流れが少し見えにくいのが残念です。

FI2612535_5E.jpg珍布(めずらし)峠、深い切り通しが印象的です。
 なお峠を東に越えると花岡神社の裏に出て国道166号沿いの道の駅「飯高」のやや東側に出てしまいますので注意。





FI2612536_1E.jpg旧飯高町を構成した4村、最後は宮前村で「大字宮前字宮東655 花岡神社前」とあり、珍布峠を下った処がその花岡神社です。 旧街道らしき道筋の北側に花岡神社(写真左)、真向かいの民家の庭先に案内板が立っています。 (写真右)




FI2612536_2E.jpg「宮前村元標跡」と記され、内容はここに30cm角4m程の角柱が建っていて、正面に「宮前村元標」、側面には松阪、津、山田(伊勢)、吉野、高野への距離が記されていたとあります。 寸法的には波瀬村のそれと同じ様なのですが、「宮前村元標」と記されていたとは...些か不可解にになってくる。 花岡神社で丁度12時、しかし現行の道路を走っていれば見つかる県道ヘキサと違い、尋ね歩かなければならない元標探しは時間が掛かるし、見つからないとすっかり意気消沈してしまいます。 計画では宮川左岸(北岸)まで南下してから伊勢街道を中川辺りまで北上するつもりでしたが、とてもそんな時間の余裕はないので一路東へと向かう事にします。

FI2612536_3E.jpg旧飯高町を後にし櫛田川の写真を撮ったりしながら旧飯南町域へ、柿野村は情報不足ですが旧街道をゆっくりと流します、「大字小片野字欠ノ山2390 石境橋東詰」とある大石村は交番で尋ね親切に色々と調べて貰ったが場所すら特定できなかった。 続く茅広江(ちひろえ)村は伊勢本街道の津留の渡しがあった場所で「大字茅原字小川44-1 郡道 楠木橋北詰」とある、楠木橋はすぐに見つかったがそんなに古いものではなく、それも掛け替え工事中かして隣に仮設橋が架かっている、北詰の民家で尋ねてみると、らしきものが集会所にあるとやらで案内して貰う、確かに昔の楠木橋の欄干や古い道標が並べて保存されていたが、「道路元標」や「里程標」とおぼしきものはなかった。

FI2612536_4E.jpg三重県下で大正道路法での様式に従った「道路元標」は少なくとも都合5基存在しているらしい事をネット上で確認していますが、その一つががこの津田村道路元標です。 伊勢本街道沿いに建っていますが「里程標」が立つ様な位置ではありません。




FI2612536_5E.jpg相可町ではこの様な「道標広場」なるものがありましたがいずれも明治期までのものでした。
 その後射和村、斎宮村、明星村と日没まで探索しましたが見つけられず、暗くなった伊勢街道をすごすごと松阪まで北上し輪行で帰途に就きました。
 本日の収穫、元標(奈良県×2、三重県×1)、丸ポスト×1、県道ヘキサ×7、峠×1、走行141.5キロでした。

HP ML350G3

今日は朝から客先のサーバーの保守立会い、3年間の保証期間終了直前に1台のディスクが故障、5台のSCSIディスクをRAID5構成にして1台をスペアとしてスタンバイさせているので障害がでても殆ど手を煩わせる事も無く運用が続いている。 ディスク交換と異音のするファンを予防交換して貰う。 自作サーバーでもハードだけなら幾らでも安価に構成できるが、やはり実績のあるメーカーのサーバーはと感心させられる。
※ ML350はCOMPAQの流れのサーバーで、下のクラスのルーツがHPのマシンは名こそサーバー用モデルですが相当タコな様です、念の為。


道路元標は何処に...

最近サイクリングのツマと云うかマイブームになっている「道路元標」蒐集。 「道路元標」とは地方自治体毎の道路の基点として大正9年の道路法施行で設置を定められた石標で、施行当時には全国に12000余りの市町村がありその数の道路元標が建てられているのである。 今では「道路元標」設置の法的な根拠や標柱としての必要性がないために、廃棄されたり埋ってしまったりと逸失しているものも多い、中には町指定文化財として保存されているものもあるのだが... 
 ところで奈良県と兵庫県は本格的に調査しまとめたものが出版されれていて両県でほぼ半数が現存している様で、と云う事は日本中の道端に6000程は残っていてもおかしくない勘定になるのだが... ちなみにネット上にも好事家がいて個人で700とか500と云った数を蒐集している強者がいる。

←はネット上にある「道路元標」関連の情報から近畿2府5県で、ほぼ位置まで特定できる「道路元標」の位置をプロットしてみた。 (緑は履修済のもの) ご覧の様に著しく偏っているのだが、ネット上を幾ら探してみても近畿ではこれ以上の情報は見当たらない滋賀県、三重県では2,3箇所あるのだが大阪府、和歌山県は皆無に等しいのである、はてさて紀伊半島がフィールドの私にとって道は険しい様である。


※ 図の様に沼島の様な小さな島であっても大正の道路法施行後に独立した町村であれば「道路元標」は存在し、兵庫県の家島や沼島には現存している様です、すると琵琶湖に浮かぶ竹生島は昭和31年まで竹生村でしたから当然設置されているはずなのですが。

食べ過ぎサイク

今日もR氏と走りに行く事となりましたが、コースは旨いもんやと道路元標を繋いで走っていた様な... まずは待ち合わせ場所の長谷寺門前「宝園堂」で「山菜おこわ饅頭」を買います、今の時期には季節限定「松茸」バージョン」があるのですが、値段が山菜や栗と同じ\150なので、松茸そのものが入っている確率が... 今日はハズレでした、季節限定だし高くても良いから「松茸」をもっと入れてほしいとお願いしましたよ。 草餅も2個買って初瀬ダムまで登ってから戴く事にします。


小夫から白木街道に取り付き鳥見山山腹を走り榛原へと下ります、しかしこの時期は紅葉にはまだまだ写真の題材が乏しいです。 榛原町と内牧村の道路元標をGETし八沢隧道で菟田野へ越えます。 少し南側に県道<218>内牧菟田野線があるのでここを経由するのは始めてです。 菟田野側の斜度はややありますが下るとなかなか雰囲気の良い風景の中を走ります。


伊那佐村、宇太村と道路元標をGETしてから、佐倉峠を越えて東吉野村へ入り、高見村、小川村、国栖村、中荘村、上市町の道路元標をGETする計画も考えていたのですが、ショートカットして松山町、神戸村をGETしてから多武峯村へ向かう事に、宮奥ダムへ登ってコンビニ弁当とR氏が道すがら買った宇陀の銘菓「きみごろも」と「宇陀川」を戴きます。

↑某トンネル、取り付け路が未完成のために未供用なのですが地元の車はもう使ってます、従って照明は点いていませんし全長1800m余りでカーブしていてライトがないと全く走れません。 距離的にショートカットにはなりますがトンネルまでかなり登る事になるので自転車にとってあまりメリットはありません、車の多いR166女寄峠を通らなくても良いと云うだけです。



未収の多武峯村道路元標は談山神社前にあります、従って「灯篭亭」の前。 宮奥ダムでお昼にしたばかりなのでお腹は空いているはずもないのですが、素通りす訳にも行かず店内に、R氏は串こんにゃく私はおでん盛り合わせ頂きますが、とどめに新製品の「古代米餅」を試食させて貰いました、古代米で作った皮に黒ゴマ餡が入った焼き餅でこれはなかなかイケます。


多武峯と明日香を結ぶ<155>多武峰見瀬線はいまだに開通しません、工事は東西から徐々に進んでいるみたいなので試しに突っ込んでみると工事は意外に進んでいて、どんどん下って行けます、一瞬このまま走り抜けられるのではと思ったのですが... 案の定「橋がない(*_*;」 結局はハイキングコースと交差する処まで登り返して山道を押し担ぎで下る事に(^_^;)

 結局はR氏を私の道路元標蒐集に付き合わせてしまった様なサイクでしたが、いつもとは一味違うルートを設定する事になるので未踏区間もあったりして少し新鮮だったと...
 本日の走行71.1キロ、しかし摂取カロリーは考えたくもないです(^_^;)


榛原町道路元標(奈良県宇陀郡)

榛原(はいばら)町は明治22年の町村制施行で榛原村として成立、明治26年には町制、戦後に伊那佐村、桜井町の一部、内牧村を編入し、平成18年1月に大宇陀町、菟田野町、室生村と合併して宇陀市となった。


元標は現在の国道165号線と国道369号線のそれぞれの旧街道が分岐する三叉路に「左あをこ江みち」「右いせ本かい道」と彫られた道標近くに建っている。


内牧村道路元標(奈良県宇陀郡)

内牧(うちのまき)村は榛原町への編入を経て現在は宇陀市となっている。 伊勢本街道の道筋にあり、桜などで知られる仏隆寺の手前になる。


元標は現在、国道369号の高井集落内の旧道区間、伊豆神社の南東にある。


宇太村道路元標(奈良県宇陀郡)

宇太村は昭和3年に町制、昭和31年に宇賀志村と合併して菟田野町となり、平成18年1月に榛原町、大宇陀町、室生村と合併して宇陀市となった。


元標は国道166号線の旧道区間、宇太水分神社境内、道路には面しているには面しているが、玉垣の内側に建っているので判りにくい。


松山町道路元標(奈良県宇陀郡)

江戸時代に織田松山藩三万石余の城下町として栄えた宇陀郡の中心地であった、松山町は昭和17年に神戸村、政始村、吉野郡上龍門村と合併し大宇陀町となり、平成18年1月に榛原町、菟田野町、室生村と合併して宇陀市となったが、榛原町役場が宇陀市役所となった。 奈良県で最初に乗合自動車が走った大宇陀、菟田野も近鉄電車の通じる榛原に宇陀の中心地を奪われてしまったが、お陰で古い街並みが良く残っている。
↑国道166号線が西側に並行して走っているものの旧街道は今も国道370号線である。


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神戸村道路元標(奈良県宇陀郡)

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神戸村道路元標は上田倖弘著「道路元標を尋ねて」では行方不明となっているが、著者の上田氏と電話でお話する機会があって、出版後に宇陀川の川底から発見され本来の橋の西詰めに再建された伺った。


市町村の変遷

一時挫折していた「岐阜県」がようやくまとまりましたので公開します(^_^;)
 うちのHPのトップページの右下の方に小さく「Library」とありますので、そちらからリンクしています。
 岐阜県は明治22年の町村制施行の時点で960余りもの町村があって、明治29年に郡の構成が見直されて町村も大幅に集約されました。 岐阜県は美濃国と飛騨国に跨っていて大野郡が2つあった上に福井県大野郡石徹白(いとしろ)村が郡上郡白鳥村に編入されていたり、最近では長野県西筑摩郡山口村が中津川市に編入されたりと話題が豊富です。


ご訪問頂いた皆様へ

本日21時:37分から22時18分の間、「ただいま混みあっています」のメッセージが出てコメントができない状況が発生していたと思われます、その間にコメントを頂き乍ら失敗し不愉快な思いをされた皆様には、対策が一向にままならない’DoBlog編集部’になりかわりましてお詫び申し上げます。


本日の収穫

昼から「笠そば」と’あけび’探しに桜井にやってきたR氏と少しご一緒してきました。 本日の収穫は日没タイムアウトで取りこぼしていた「高取町道路元標」と以前から何処にあるのか判らなかった<212>玉手茅原線のヘキサ。


明日香村にて


「掖上村道路元標」も探していたのですが、掖上小学校正門横には見当たりません、実はここはR氏一家と大変縁のある小学校なので、旧知の先生方にも聞いて頂いたのですが行方は知れませんでした。


帰途、T御大宅へ立ち寄ると週末からの稲刈りで収穫したお米を運んでいる最中、無視して帰る訳にも行かないので半分以上を納屋まで運びましたよ。 白米なら貰ってかえるのだけどネ。

本日の走行40.6キロ


大黒屋さん主催「鴨池キャンプ」 (2日目)

FI2612518_1E.jpg翌朝キャンプ場に奈良競輪場のバンク走行会での落車事故で骨折、暫く自転車に乗れなかったU兄氏が現れ今日は復活サイクです。 この後当日参加のTETUさん、お久しぶりのT.Tanabe氏が到着、今日は8名で走る事になりました。







FI2612518_2E.jpgTETUさんはトライクスで参加










FI2612518_3E.jpg鴨池キャンプ場から権現湖畔?平荘湖畔と走り加古川河畔にでます。









FI2612518_4E.jpg加古川では「穴子めし丼」を戴きます。










FI2612518_5E.jpg鴨池キャンプ場への帰途は加古川河畔を走りますが、向かい風がキツくって大変。 私は9氏と合流するためにここでお別れし三木市志染へ向かい15日のサイクを終えました、走行48キロ。

←後ろはJR加古川線の鉄橋、実はこの地を訪れるのは30数年ぶりです、うちのHP中の俯瞰写真には下流側から見たこの鉄橋が右上に写っています。 この時代には走っていた河畔の防災道路はありませんネ。 既にうちのHPの「ツーリングの記録」に写真をアップしていますが、どうしても大黒屋さんとトライクスのTETUさんばかりが目立って写ってますm(_ _)m

 

古稀に至ってもなお「走」「工」「趣」三拍子揃って三流のサイクリスト。ライフワークは「道路元標」と「自撮り」。なお「■ャリ」等の自転車に対する卑しい言葉をコメント等ではお使いにならないで下さい。