日野商人街道と呼ばれる旧街道を旧西大路村域を探索しながら東へ、車も少なく自転車には走りやすい道なので国道477号線を平子峠へ向かうにはお勧めのルートです。 音羽から県道<182>西明寺水口線で鎌掛(かいがけ)峠を越えて旧鎌掛村域へ、ここでも公民館で訊ねたりしみましたが、新たな道路元標は見つける事はできませんでした。
↑裏側に昭和12年と記された新しい道標が...
鎌掛から県道<41>土山蒲生近江八幡線を南へ、笹尾峠の西側を越える無名の峠ですが、古い溜池の傍を通ったりして雰囲気の良い道で、私の好きな道のひとつです。
←鎌掛から峠に向かって
土山から大原ダム経由で油日へ出る計画でしたが雲行きも怪しいし時間も押しているので県道<24>甲賀土山線と県道<4>草津伊賀線で柘植へ向かう事に、未収の倉歴(くらぶ)越をゲットする為に旧道へ入ろうとしますが、現在の県道が高架でJR草津線を越えているのに対して旧道は線路で分断されていててこずってしまいます。 とにかく倉歴越まで少し登り返す事に。
加太越え大和街道沿いに復元された里程標とともに建つ東柘植村道路元標をゲットして、旧街道を西へ...
←西柘植村道路元標が建っていただろう場所はこうなっていますが、元標は見当たりません。
府中村道路元標が建つ佐那具に着いた頃にはすっかり真っ暗に。
伊賀上野?御斉峠「牛タンとろろ」ツーリングの最後の休憩ポイントでお馴染みの佐那具駅に立ち寄った処で雨が本降りに、上野市街へ走って後数キロウロウロすればセンチュリーランになる距離なのが残念ですが、雨の中暗い道を走るのもとここから輪行で帰途に就く事に。
しかし未知の道路元標を見つけ出す事は今回もできませんでした。
本日の実績、道路元標×6、峠×3、丸ポスト×6、走行距離151.1キロ。
相楽郡瓶原(みかのはら)村は昭和26年に当野村とともに加茂町に編入された、瓶原の地名はそのままでは残っていない様である、ただ幼稚園が美加ノ原と字を当てて名付けられている、確かに幼稚園に難読地名をそのまま付けるのもなんですしネ。
なおゴルフ場の「美加ノ原カンツリークラブ」は木津川をはさんだ対岸の現在の木津町と加茂町に跨った場所にある。
道路元標は恭仁(くに)小学校正門?を入ってすぐの左側に道路に面して建っているので、正面側を撮影するだけなら柵越しに見えるので困る事はない。
たまたまこの日は加茂町の行事で構内のトイレとかが開放される様なので、早朝でなければ裏面を確認する事ができたかも知れない。
相楽郡湯船村は昭和31年に和束町に編入された。
元標は県道<5>木津信楽線に面した元の小学校跡と思われる場所に建っている。
事の経緯は判らないが、何故か裏面に「木津町道路元標」とある、但し相楽郡木津町には今も木津町道路元標は存在している。
日野町は明治22年の町村制施行時から町であったが、昭和30年に周辺6村と合併し現在の形となった。
元標は旧街道から県道<41>土山蒲生近江八幡線が土山方面へ分岐する三叉路、興仙寺門前にあるが、塔頂の形状が角錐状になっていて、同じ滋賀県に現存する大津市、木之本町の省令に従った形状とは異なる。
裏面には加工された穴が... 塔頂の形状からも大正時代に建てられた道路元標そのものではなく模して再現されたものかも知れない。
滋賀県にこの形状の元標が他にあるかどうかが興味深い。
ところで旧信楽町と旧水口町で見つけた「県道路?」と記された石標、道路元標より一回りは小さいが塔頂は角錐状である。
東柘植(つげ)村は昭和17年に柘植町となり、昭和34年に春日村と合併し伊賀町となった。
平成16年には上野市、他の阿山郡の町、名賀郡青山町と合併し伊賀市となり、阿山郡と名賀郡は消滅した。
元標は伊賀越え大和街道の三叉路に明治の里程標を模して再現した木製の標柱と並んで建っている。
櫛田川

櫛田川にて、沈下橋の橋脚でしょうかネ...

こちらは健在です、
反対側から見るとこんな素晴らしい風景なのですが、昨年の土砂崩れの復旧工事で未だに通行止が続いていて行けません。

自転車では怖くて渡れないですネ
今日は朝から客先のサーバーの保守立会い、3年間の保証期間終了直前に1台のディスクが故障、5台のSCSIディスクをRAID5構成にして1台をスペアとしてスタンバイさせているので障害がでても殆ど手を煩わせる事も無く運用が続いている。
ディスク交換と異音のするファンを予防交換して貰う。
自作サーバーでもハードだけなら幾らでも安価に構成できるが、やはり実績のあるメーカーのサーバーはと感心させられる。
※ ML350はCOMPAQの流れのサーバーで、下のクラスのルーツがHPのマシンは名こそサーバー用モデルですが相当タコな様です、念の為。
最近サイクリングのツマと云うかマイブームになっている「道路元標」蒐集。
「道路元標」とは地方自治体毎の道路の基点として大正9年の道路法施行で設置を定められた石標で、施行当時には全国に12000余りの市町村がありその数の道路元標が建てられているのである。
今では「道路元標」設置の法的な根拠や標柱としての必要性がないために、廃棄されたり埋ってしまったりと逸失しているものも多い、中には町指定文化財として保存されているものもあるのだが...
ところで奈良県と兵庫県は本格的に調査しまとめたものが出版されれていて両県でほぼ半数が現存している様で、と云う事は日本中の道端に6000程は残っていてもおかしくない勘定になるのだが... ちなみにネット上にも好事家がいて個人で700とか500と云った数を蒐集している強者がいる。
←はネット上にある「道路元標」関連の情報から近畿2府5県で、ほぼ位置まで特定できる「道路元標」の位置をプロットしてみた。
(緑は履修済のもの) ご覧の様に著しく偏っているのだが、ネット上を幾ら探してみても近畿ではこれ以上の情報は見当たらない滋賀県、三重県では2,3箇所あるのだが大阪府、和歌山県は皆無に等しいのである、はてさて紀伊半島がフィールドの私にとって道は険しい様である。
※ 図の様に沼島の様な小さな島であっても大正の道路法施行後に独立した町村であれば「道路元標」は存在し、兵庫県の家島や沼島には現存している様です、すると琵琶湖に浮かぶ竹生島は昭和31年まで竹生村でしたから当然設置されているはずなのですが。
今日もR氏と走りに行く事となりましたが、コースは旨いもんやと道路元標を繋いで走っていた様な... まずは待ち合わせ場所の長谷寺門前「宝園堂」で「山菜おこわ饅頭」を買います、今の時期には季節限定「松茸」バージョン」があるのですが、値段が山菜や栗と同じ\150なので、松茸そのものが入っている確率が... 今日はハズレでした、季節限定だし高くても良いから「松茸」をもっと入れてほしいとお願いしましたよ。 草餅も2個買って初瀬ダムまで登ってから戴く事にします。
小夫から白木街道に取り付き鳥見山山腹を走り榛原へと下ります、しかしこの時期は紅葉にはまだまだ写真の題材が乏しいです。 榛原町と内牧村の道路元標をGETし八沢隧道で菟田野へ越えます。 少し南側に県道<218>内牧菟田野線があるのでここを経由するのは始めてです。 菟田野側の斜度はややありますが下るとなかなか雰囲気の良い風景の中を走ります。
伊那佐村、宇太村と道路元標をGETしてから、佐倉峠を越えて東吉野村へ入り、高見村、小川村、国栖村、中荘村、上市町の道路元標をGETする計画も考えていたのですが、ショートカットして松山町、神戸村をGETしてから多武峯村へ向かう事に、宮奥ダムへ登ってコンビニ弁当とR氏が道すがら買った宇陀の銘菓「きみごろも」と「宇陀川」を戴きます。
↑某トンネル、取り付け路が未完成のために未供用なのですが地元の車はもう使ってます、従って照明は点いていませんし全長1800m余りでカーブしていてライトがないと全く走れません。 距離的にショートカットにはなりますがトンネルまでかなり登る事になるので自転車にとってあまりメリットはありません、車の多いR166女寄峠を通らなくても良いと云うだけです。
未収の多武峯村道路元標は談山神社前にあります、従って「灯篭亭」の前。 宮奥ダムでお昼にしたばかりなのでお腹は空いているはずもないのですが、素通りす訳にも行かず店内に、R氏は串こんにゃく私はおでん盛り合わせ頂きますが、とどめに新製品の「古代米餅」を試食させて貰いました、古代米で作った皮に黒ゴマ餡が入った焼き餅でこれはなかなかイケます。
多武峯と明日香を結ぶ<155>多武峰見瀬線はいまだに開通しません、工事は東西から徐々に進んでいるみたいなので試しに突っ込んでみると工事は意外に進んでいて、どんどん下って行けます、一瞬このまま走り抜けられるのではと思ったのですが... 案の定「橋がない(*_*;」 結局はハイキングコースと交差する処まで登り返して山道を押し担ぎで下る事に(^_^;)
結局はR氏を私の道路元標蒐集に付き合わせてしまった様なサイクでしたが、いつもとは一味違うルートを設定する事になるので未踏区間もあったりして少し新鮮だったと...
本日の走行71.1キロ、しかし摂取カロリーは考えたくもないです(^_^;)
榛原(はいばら)町は明治22年の町村制施行で榛原村として成立、明治26年には町制、戦後に伊那佐村、桜井町の一部、内牧村を編入し、平成18年1月に大宇陀町、菟田野町、室生村と合併して宇陀市となった。
元標は現在の国道165号線と国道369号線のそれぞれの旧街道が分岐する三叉路に「左あをこ江みち」「右いせ本かい道」と彫られた道標近くに建っている。
内牧(うちのまき)村は榛原町への編入を経て現在は宇陀市となっている。
伊勢本街道の道筋にあり、桜などで知られる仏隆寺の手前になる。
元標は現在、国道369号の高井集落内の旧道区間、伊豆神社の南東にある。
伊那佐(いなさ)村は榛原町への編入を経て現在は宇陀市となっている。

元標は
県道<31>榛原菟田野御杖線の旧道区間沿い、元の伊那佐村役場前、現在のJA伊那佐支店前に建っている。
宇太村は昭和3年に町制、昭和31年に宇賀志村と合併して菟田野町となり、平成18年1月に榛原町、大宇陀町、室生村と合併して宇陀市となった。
元標は国道166号線の旧道区間、宇太水分神社境内、道路には面しているには面しているが、玉垣の内側に建っているので判りにくい。
江戸時代に織田松山藩三万石余の城下町として栄えた宇陀郡の中心地であった、松山町は昭和17年に神戸村、政始村、吉野郡上龍門村と合併し大宇陀町となり、平成18年1月に榛原町、菟田野町、室生村と合併して宇陀市となったが、榛原町役場が宇陀市役所となった。
奈良県で最初に乗合自動車が走った大宇陀、菟田野も近鉄電車の通じる榛原に宇陀の中心地を奪われてしまったが、お陰で古い街並みが良く残っている。
↑国道166号線が西側に並行して走っているものの旧街道は今も国道370号線である。
32
33
神戸村道路元標は上田倖弘著「道路元標を尋ねて」では行方不明となっているが、著者の上田氏と電話でお話する機会があって、出版後に宇陀川の川底から発見され本来の橋の西詰めに再建された伺った。
一時挫折していた「岐阜県」がようやくまとまりましたので公開します(^_^;)
うちの
HPのトップページの右下の方に小さく「Library」とありますので、そちらからリンクしています。
岐阜県は明治22年の町村制施行の時点で960余りもの町村があって、明治29年に郡の構成が見直されて町村も大幅に集約されました。
岐阜県は美濃国と飛騨国に跨っていて大野郡が2つあった上に福井県大野郡石徹白(いとしろ)村が郡上郡白鳥村に編入されていたり、最近では長野県西筑摩郡山口村が中津川市に編入されたりと話題が豊富です。
本日21時:37分から22時18分の間、「ただいま混みあっています」のメッセージが出てコメントができない状況が発生していたと思われます、その間にコメントを頂き乍ら失敗し不愉快な思いをされた皆様には、対策が一向にままならない’DoBlog編集部’になりかわりましてお詫び申し上げます。
昼から「笠そば」と’あけび’探しに桜井にやってきたR氏と少しご一緒してきました。
本日の収穫は日没タイムアウトで取りこぼしていた「高取町道路元標」と以前から何処にあるのか判らなかった<212>玉手茅原線のヘキサ。
明日香村にて
「掖上村道路元標」も探していたのですが、掖上小学校正門横には見当たりません、実はここはR氏一家と大変縁のある小学校なので、旧知の先生方にも聞いて頂いたのですが行方は知れませんでした。
帰途、T御大宅へ立ち寄ると週末からの稲刈りで収穫したお米を運んでいる最中、無視して帰る訳にも行かないので半分以上を納屋まで運びましたよ。
白米なら貰ってかえるのだけどネ。
本日の走行40.6キロ
高取町は明治25年に町制、昭和29年に越智岡村、船倉村を編入して現在の形になった。
元標は高取町の古い街並み、土佐街道?大淀古道と呼ばれる吉野への道筋の三叉路に建っている。