納所(のうそ)村は現在の京都市伏見区の一部、昭和6年に伏見市などとともに伏見区となった。
元標は府道13号京都守口線(旧京阪国道)の納所町交差点(六差路)を真北に千本通り(鳥羽街道)に入った処に立っている。
典型的な省令型の塔頂、裏面は無地。
仕事、と云っても年末のご挨拶ですが愛知県弥富市へ行ったので「弥富町道路元標」をゲットしてきました、これで99基目ですが年内100基達成は難しそうです。
もちろん自転車ではないです、県道ヘキサは100%自転車同行ですが、道路元標は今後沼島の様な離島へ行くかも知れないので、あえて自転車でとは拘らない事にしました(^^;)

現在の国道1号線より海岸寄りの旧東海道でしょうか、昔役場のあった場所が「歴史民族資料館」となっていて、その前に「弥富町道路元標」は保存されています。

Rが大きいですが省令に従った形状で、裏面は無地です。
四郷村は昭和30年に伊勢市の前身の宇治山田市に近隣3村とともに編入され、同日宇治山田市は伊勢市と改称しほぼ現在の姿となった。
元標は三重県道<37>松阪鳥羽線沿いの伊勢市立四郷小学校前に建っている。
小俣町は昭和3年に町制、平成17年に二見町、御薗村とともに伊勢市と合併しました。
元標は旧参宮街道沿いの小俣小学校西側に建っています。
上野町は昭和18年に周辺6村と合併し市制をしき、戦後も周辺5村を編入し伊賀市となるまでの上野市の形をなした。
平成16年に伊賀町、阿山町、青山町、大山田村、島ヶ原村と合併し伊賀市となり阿山郡と名賀郡は消滅した。
道路元標は伊賀街道の三叉路、上野本町通り郵便局角にある。
なお「上野町道路元標」ではなく「上野町元標」となっており、書体も道路元標としてはユニークなものである。
頼んでおいた本が届いた、表題の通りの兵庫県下の道路元標を著者が10年の歳月をかけて探索した資料である。 道路元標が設置されたであろう400余りの行政区を巡り217基の現存を確認し写真に収めている。 奈良版とも云える「道路元標を尋ねて -奈良県ふるさとめぐり-」(上田倖弘著 弘道社)に比べると読ませる部分や周辺の写真や地図がなく、単に情報の羅列と云う感じもなくはないが、元標の存否を知る事ができるだけでも貴重な資料である。 A5版160頁、頒価\2,200_
下田村は昭和31年に近隣3村と合併して香芝町となり、平成3年香芝市となった。
元標は長らく旧街道沿いの中川酒店前にあったが、最近JR香芝駅(旧下田駅)そばの下田地区公民館前に移され保存されている。
残念な事に「元標」の文字が埋まってしまっている、ただ中川酒店前にあった時は「路」も埋っていた様なので既に下の部分は失われてしまっていたのだろうか...
また折角の説明が「明治のはじめごろ...云々」と書かれている、もちろん道路元標は早くても大正9年以降のものである。
今回は雪が積もる前に丹波丹後の道路元標をやっつけておこうと、往復輪行の予定で丹波方面へ向かう事に、桜井5:38発のJR桜井線で奈良へ、木津で学研都市線に、同志社前では始発の篠山口行きの直通快速に乗換て、これで混雑する大阪市内を座ったまま通過する事ができる。
篠山市域の元標は先月にほぼ履修済なのだが古市駅で下車し国道176号線を北上、遠回りだが先月から通行止の標識が出ていた<77>篠山山南線を使ってJR福知山線沿いに交通量の少なさそうな道で柏原方面に抜けようと企てたのだが... 「通行止」といっても自転車も通れない様なケースは稀なのでタカを括っていたのだが、2キロ程入った処でしっかりしたゲートとフェンスがあって路肩を擦り抜ける事すらできない。
すごすごと国道176号線まで引き返す事に...
今日の予定の氷上郡と朝来郡へ篠山から国道176号線で向かうには鐘ヶ坂峠を越えなければならないので敬遠したのだが、篠山側の標高差は知れていて旧道もほぼ繋がっているので意外な程快適に
鐘ヶ坂トンネルにたどり着く事ができた。
その上新鐘ヶ坂トンネルが開通していて旧トンネルの交通量は皆無、こんな事ならわざわざ工事中と書いてある篠山山南線に突っ込まずに素直に国道を走れば良かったと少し後悔、日頃から交通量の少ない道や旧道を縫って走っているもので(^_^;)
また新鐘ヶ坂トンネルの開通を期に明治期の鐘ヶ坂隧道が整備され通行できる様になっている様である、アプローチが数100mのダートなので今回は遠慮する事に。
なお全長は200m余りだが隧道内には排水路が横切っていて照明もないそうなので、ヘッドライトは必携の様である、煉瓦積みのボータルは篠山側が綺麗に残っているそうである。

氷上郡で幸世村、芦田村、佐治町、遠坂村の道路元標をGET、国道427号線で
遠坂峠を越え朝来郡へ入り粟鹿村、簗瀬村、枚田村、東河村と廻り無名の峠を越え上夜久野駅へ下った時には既に15時、あわよくばと考えていた舞鶴へはとても明るいうちにたどり着くのは無理である、随分陽も短くなった事もあるが篠山を朝10時前にスタートしているのだから、まぁ仕方がないだろう。
↑上夜久野、日頃奈良や紀伊半島と風景を見慣れている目には、山の形や瓦の色とかも違っていて新鮮です。

とにかく天田郡金谷村の道路元標をGETするために夜久野から国道9号線を福知山方面に走ります、ツーリングマップルには「交通量の少ない区間」なんて書いてありますが、大型車がバンバン走る自転車にとっては最悪の道、極力旧道や走れそうな歩道をよって走りますが、正直云って二度と走りたくないです。

金谷村元標も無事にGET、福知山市街まであと少しですがお腹もすいてきたしとコンビニで買い食いしていたら、すっかり遅くなって次のポイントへ明るい内に辿り着くのは不可能だと、福知山駅まで走っても乗れる列車に変わりは無いようなので最寄りの山陰本線上川口駅から輪行で帰途に就く事に。
本日の実績
走行ルート往復輪行所要7時間、実走行5時間、走行距離101.7キロ、
峠×2、道路元標×9で計86基、奈良県下にはまだ16基程残っているので100基達成も射程に入ったのだが、遥か下北山村とか現存が怪しそうな処も幾つかあるので...
明治22年に油良村として発足、明治24年に幸世(さちよ)村となり、昭和30年に近隣5町村が合併し氷上町となったが、平成16年に丹波市となり氷上郡は消滅した。
元標は現在県道<7>青垣柏原線沿いの北小学校正門脇に建っている。
「幸世」の名は郵便局に残っている。
芦田村は昭和30年に近隣4町村と合併し青垣町となり、平成16年に丹波市となった。
元標は県道からは川をはさんで離れた芦田小学校正門脇にある、旧道脇にも思えないし保存のつもりで移設した様にも思えないが。 また他の氷上郡の道路元標5基は省令に従った形状だが、ここ芦田村と船城村道路元標は形状が異なり、材質も異なる様に思える。
遠坂村は昭和30年に近隣4町村と合併し青垣町となり、平成16年に丹波市となった。
国道427号線沿い、遠坂小学校向かいの八幡神社前に元標はある。
粟鹿(あわが)村は昭和29年に梁瀬町、与布土村と合併し山東町となり、平成17年に朝来市となった。
道路元標は国道427号線沿いに建つ。
‘粟鹿’の名は小学校に残る。
簗瀬村は大正15年に町制をしき、昭和29年に粟鹿村他と合併し山東町となり、平成17年に朝来市となった。
元標は旧街道に沿った大きな屋敷脇に建っている。
なお地名は’山東町矢名瀬’と表記されているが周辺の駅や郵便局は’梁瀬’のままである。
枚田(ひらた)村は旧和田山町の前身、昭和5年に町制をしき和田山町となり、平成17年に朝来市となった。
元標はJR播但線、県道<104>物部養父線に面した枚田小学校正門脇に保存?されている。
工事中だからなのかも知れないが、正門には門扉は無く撮影する事には支障はなかったが一応は学校敷地内である(^_^;)
東河村は昭和29年に和田川町と合併し、平成17年に朝来市となった。
元標は現在の県道<273>金浦和田山線の北側の旧道沿いにある。
‘東河’の名は小学校と簡易郵便局に残っている。
金谷村は昭和30年に福知山市に編入されている。
元標は国道9号線の北側に並行する旧道沿いの空き地の前に建っている、近くにあった金谷郵便局はなくなってしまった様で’金谷’の名前は小学校に残っている位の様である。
丹波市町は現在の天理市の前身になるのだが、近鉄やJRの天理駅や商店街がある現在の天理市の中心部からはやや南へ離れた上街道に沿った位置に丹波市町道路元標はあり、現在も地名や郵便局に’丹波市’の名は残っている。
昭和29年に丹波市町は近隣の5村を合併して天理市となったが、JR桜井線の駅は丹波市駅と称したまま現在地よりやや南東の場所にあった、桜井線の高架化と近鉄天理駅との統合で現在の形となり、名称も天理駅となった。
天理教のまちとして発展して中心が北側へ移動してしまった訳である。
元標は元は上街道に面して建っていた様だが、現在は丹波市郵便局向かいの市座神社の奥まった処にある。
昔、上街道が布留川南流に架かっていたと言われる青石橋と並んで建っている。
本来の場所ではないですが、元標は神社の境内と云う恵まれた場所に未来永劫に建っている事でしょう(^_^)
大安寺村は昭和26年に奈良市に編入されている。
元の大安寺村役場のあった場所には長らく奈良市大安寺支所があったのだが、現在は史跡として保存されている。
奥に見えるのは大安寺小学校。
県道<122>京終停車場薬師寺線沿い、大安寺役場跡の北向かいの生け垣の中に元標はある。
県庁所在地でありながら明治22年の町村制施行時は人口が満たないために奈良町として発足し、明治31年に市制をしいた。
元標は三条通り、猿沢池の少し西のサークルK前に建っている。
宇治郡宇治村は昭和17年に笠取村と合併し東宇治村となり、昭和26年に宇治町他3村と合併し宇治市となった。
なお同じ名前の’町’と’村’が同時期に隣接して存在する事は珍しくなかった。
岸和田町と岸和田村や、明治22年の町村制以前だが相楽郡木津村から木津町が派生した例もある。
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道路元標漁りは色々と下調べが必要なので大変です、資料をまとめていったらファイルが2冊目になってしまった。
調べものに図書館へも行かなきゃならないし...
しかし自転車ってのは道路元標探索には最も相応しい足だと思いますネ、地域によっては街中で小回りが効いて輪行のしやすいミニベロが1台欲しいのだけどネ。
現在、63本?、年内には100本を達成したいのだけど。
當麻村は昭和31年に磐城村を編入、昭和41年に町制、平成16年に新庄町と合併し葛城市となった。
元標は名刹當麻寺の門前という恵まれた環境に建てられたのだが、車にぶつけられたのだろうか破損し今では「路元標」しか読めない。
日野商人街道と呼ばれる旧街道を旧西大路村域を探索しながら東へ、車も少なく自転車には走りやすい道なので国道477号線を平子峠へ向かうにはお勧めのルートです。 音羽から県道<182>西明寺水口線で鎌掛(かいがけ)峠を越えて旧鎌掛村域へ、ここでも公民館で訊ねたりしみましたが、新たな道路元標は見つける事はできませんでした。
↑裏側に昭和12年と記された新しい道標が...
鎌掛から県道<41>土山蒲生近江八幡線を南へ、笹尾峠の西側を越える無名の峠ですが、古い溜池の傍を通ったりして雰囲気の良い道で、私の好きな道のひとつです。
←鎌掛から峠に向かって
土山から大原ダム経由で油日へ出る計画でしたが雲行きも怪しいし時間も押しているので県道<24>甲賀土山線と県道<4>草津伊賀線で柘植へ向かう事に、未収の倉歴(くらぶ)越をゲットする為に旧道へ入ろうとしますが、現在の県道が高架でJR草津線を越えているのに対して旧道は線路で分断されていててこずってしまいます。 とにかく倉歴越まで少し登り返す事に。
加太越え大和街道沿いに復元された里程標とともに建つ東柘植村道路元標をゲットして、旧街道を西へ...
←西柘植村道路元標が建っていただろう場所はこうなっていますが、元標は見当たりません。
府中村道路元標が建つ佐那具に着いた頃にはすっかり真っ暗に。
伊賀上野?御斉峠「牛タンとろろ」ツーリングの最後の休憩ポイントでお馴染みの佐那具駅に立ち寄った処で雨が本降りに、上野市街へ走って後数キロウロウロすればセンチュリーランになる距離なのが残念ですが、雨の中暗い道を走るのもとここから輪行で帰途に就く事に。
しかし未知の道路元標を見つけ出す事は今回もできませんでした。
本日の実績、道路元標×6、峠×3、丸ポスト×6、走行距離151.1キロ。
相楽郡瓶原(みかのはら)村は昭和26年に当野村とともに加茂町に編入された、瓶原の地名はそのままでは残っていない様である、ただ幼稚園が美加ノ原と字を当てて名付けられている、確かに幼稚園に難読地名をそのまま付けるのもなんですしネ。
なおゴルフ場の「美加ノ原カンツリークラブ」は木津川をはさんだ対岸の現在の木津町と加茂町に跨った場所にある。
道路元標は恭仁(くに)小学校正門?を入ってすぐの左側に道路に面して建っているので、正面側を撮影するだけなら柵越しに見えるので困る事はない。
たまたまこの日は加茂町の行事で構内のトイレとかが開放される様なので、早朝でなければ裏面を確認する事ができたかも知れない。
相楽郡湯船村は昭和31年に和束町に編入された。
元標は県道<5>木津信楽線に面した元の小学校跡と思われる場所に建っている。
事の経緯は判らないが、何故か裏面に「木津町道路元標」とある、但し相楽郡木津町には今も木津町道路元標は存在している。
日野町は明治22年の町村制施行時から町であったが、昭和30年に周辺6村と合併し現在の形となった。
元標は旧街道から県道<41>土山蒲生近江八幡線が土山方面へ分岐する三叉路、興仙寺門前にあるが、塔頂の形状が角錐状になっていて、同じ滋賀県に現存する大津市、木之本町の省令に従った形状とは異なる。
裏面には加工された穴が... 塔頂の形状からも大正時代に建てられた道路元標そのものではなく模して再現されたものかも知れない。
滋賀県にこの形状の元標が他にあるかどうかが興味深い。
ところで旧信楽町と旧水口町で見つけた「県道路?」と記された石標、道路元標より一回りは小さいが塔頂は角錐状である。
東柘植(つげ)村は昭和17年に柘植町となり、昭和34年に春日村と合併し伊賀町となった。
平成16年には上野市、他の阿山郡の町、名賀郡青山町と合併し伊賀市となり、阿山郡と名賀郡は消滅した。
元標は伊賀越え大和街道の三叉路に明治の里程標を模して再現した木製の標柱と並んで建っている。
最近サイクリングのツマと云うかマイブームになっている「道路元標」蒐集。
「道路元標」とは地方自治体毎の道路の基点として大正9年の道路法施行で設置を定められた石標で、施行当時には全国に12000余りの市町村がありその数の道路元標が建てられているのである。
今では「道路元標」設置の法的な根拠や標柱としての必要性がないために、廃棄されたり埋ってしまったりと逸失しているものも多い、中には町指定文化財として保存されているものもあるのだが...
ところで奈良県と兵庫県は本格的に調査しまとめたものが出版されれていて両県でほぼ半数が現存している様で、と云う事は日本中の道端に6000程は残っていてもおかしくない勘定になるのだが... ちなみにネット上にも好事家がいて個人で700とか500と云った数を蒐集している強者がいる。
←はネット上にある「道路元標」関連の情報から近畿2府5県で、ほぼ位置まで特定できる「道路元標」の位置をプロットしてみた。
(緑は履修済のもの) ご覧の様に著しく偏っているのだが、ネット上を幾ら探してみても近畿ではこれ以上の情報は見当たらない滋賀県、三重県では2,3箇所あるのだが大阪府、和歌山県は皆無に等しいのである、はてさて紀伊半島がフィールドの私にとって道は険しい様である。
※ 図の様に沼島の様な小さな島であっても大正の道路法施行後に独立した町村であれば「道路元標」は存在し、兵庫県の家島や沼島には現存している様です、すると琵琶湖に浮かぶ竹生島は昭和31年まで竹生村でしたから当然設置されているはずなのですが。
今日もR氏と走りに行く事となりましたが、コースは旨いもんやと道路元標を繋いで走っていた様な... まずは待ち合わせ場所の長谷寺門前「宝園堂」で「山菜おこわ饅頭」を買います、今の時期には季節限定「松茸」バージョン」があるのですが、値段が山菜や栗と同じ\150なので、松茸そのものが入っている確率が... 今日はハズレでした、季節限定だし高くても良いから「松茸」をもっと入れてほしいとお願いしましたよ。 草餅も2個買って初瀬ダムまで登ってから戴く事にします。
小夫から白木街道に取り付き鳥見山山腹を走り榛原へと下ります、しかしこの時期は紅葉にはまだまだ写真の題材が乏しいです。 榛原町と内牧村の道路元標をGETし八沢隧道で菟田野へ越えます。 少し南側に県道<218>内牧菟田野線があるのでここを経由するのは始めてです。 菟田野側の斜度はややありますが下るとなかなか雰囲気の良い風景の中を走ります。
伊那佐村、宇太村と道路元標をGETしてから、佐倉峠を越えて東吉野村へ入り、高見村、小川村、国栖村、中荘村、上市町の道路元標をGETする計画も考えていたのですが、ショートカットして松山町、神戸村をGETしてから多武峯村へ向かう事に、宮奥ダムへ登ってコンビニ弁当とR氏が道すがら買った宇陀の銘菓「きみごろも」と「宇陀川」を戴きます。
↑某トンネル、取り付け路が未完成のために未供用なのですが地元の車はもう使ってます、従って照明は点いていませんし全長1800m余りでカーブしていてライトがないと全く走れません。 距離的にショートカットにはなりますがトンネルまでかなり登る事になるので自転車にとってあまりメリットはありません、車の多いR166女寄峠を通らなくても良いと云うだけです。
未収の多武峯村道路元標は談山神社前にあります、従って「灯篭亭」の前。 宮奥ダムでお昼にしたばかりなのでお腹は空いているはずもないのですが、素通りす訳にも行かず店内に、R氏は串こんにゃく私はおでん盛り合わせ頂きますが、とどめに新製品の「古代米餅」を試食させて貰いました、古代米で作った皮に黒ゴマ餡が入った焼き餅でこれはなかなかイケます。
多武峯と明日香を結ぶ<155>多武峰見瀬線はいまだに開通しません、工事は東西から徐々に進んでいるみたいなので試しに突っ込んでみると工事は意外に進んでいて、どんどん下って行けます、一瞬このまま走り抜けられるのではと思ったのですが... 案の定「橋がない(*_*;」 結局はハイキングコースと交差する処まで登り返して山道を押し担ぎで下る事に(^_^;)
結局はR氏を私の道路元標蒐集に付き合わせてしまった様なサイクでしたが、いつもとは一味違うルートを設定する事になるので未踏区間もあったりして少し新鮮だったと...
本日の走行71.1キロ、しかし摂取カロリーは考えたくもないです(^_^;)