吉野郡上市町、中荘村、国栖村、小川村。
これで118基、吉野郡には後2基現存している様です。

今まで
<221>小村木津線と<
251>谷尻木津線はヘキサ標識がなかったのですが、真新しいのが立ってました。
谷尻’は’たんじり’と読ませるのですが、谷尻集落に立ったヘキサ標識には’Tanijiri’となっていました。
県は勝手に地名の読みをかえているのでしょうか? ところで’小’一文字で’おむら’と読ませるのですが”小村’でも’おむらむら’にはなりません(^_^;)
昨夜ある方からメールを頂き和歌山市郊外の伊太祁曽神社前に「西山東村道路元標」が現存していると教えて頂いた。
伊太祁曽(いたきそ)神社は昨年4月に前を通っていて、熊野古道と龍神街道の分岐点にあたる場所で、現在も県道<9>岩出海南線と<138>和歌山野上線の分岐点でもあるので門前の写真を撮っていたはずなので調べてみると確かにらしきものが写っている、しかし興味を持って探していないとこんなものですネ(^_^;) 9さんに見つけて頂いた「安楽川村道路元標」とともに近いうちに確認に走って行かなければ\(^o^)/
和歌山県には私が知る範囲での’大正道路元標’は橋本町、岩出町、安楽川村、有田村(西牟婁郡)に続いて5基目となった、しかし有田村は昨年9月に<226>紀伊有田停車場線の
走破とヘキサ撮影に行っているだけにおしい事をしてしまった。
亀山町は昭和29年に周辺4村(井田川、昼生、川崎、野登)と合併して市制を施行、翌30年には2村(神辺、白川)の一部を編入、平成17年に関町と合併し鈴鹿郡は消滅し現在の姿になった。
道路元標はかって国道だった交差点に面した江ヶ室交番裏の駐車場奥に’明治里程標'(木製復元?)とともに建っている。
8
今月一杯で廃止される泉佐野と津名を結ぶ「南海淡路ライン」を利用して淡路島の’道路元標’蒐集に行ってきました。 「南海淡路ライン」が廃止されると淡路島へ渡るフェリーは明石からの「たこフェリー」だけになってしまい、四国側からも鳴門橋は自転車は渡れないのでサイクリストにとって淡路島南部は非常にアクセスしずらい地域になってしまうのです。
もちろん航送料金\700を払えば自転車もそのまま載せられるのですが、折角のPacficですから輪行状態にして乗り込みます。 それにこの時期車と一緒に外で乗船まで並ばされるのもたまりませんしねぇ(^_^;) 終夜で10便(平日)が運行されていて、泉佐野0820発の下り3便に乗りましたが車なしでの乗船は私一人でした、船内でNHK朝の連ドラ「芋だこなんきん」も見たし1時間半の船旅ものんびりして良いものです。
津名から<469>上内膳津名線で山間部へ入り’道路元標’を辿りながらR28旧道で福良まで南下、海沿いの<25>南淡西淡線を走らず、山越えルートで西淡町へ入ったので折角ここまで来て鳴門橋も見ず仕舞です。
←旧西淡町(現南あわじ市)にて、冬晴れの暖かい日ですがさすがに海沿いは風が...
再び内陸部に入り<66>津名五色三原線へ向かいます、田園風景の中の場違いに立派なを道路をおはあちゃんの運転する白菜を満載した運搬車???が2サイクルのエンジン音を響かせながらが...のどかなもんです(^_^)
藤原勝永著「兵庫県の道路元標」によると淡路島の津名郡、三原郡には15基の’大正道路元標’の現存が確認されていましたが、賀集村道路元標が撤去されていて行方知れずになっていたものの今日は8基をGETできましたが、南岸の内灘村と離島の沼島村が残ってしまったのが...車に乗らない身にはいよいよ日帰りでは行けなくなります。
予定通りなら三重県で現存が確認されている12基の’道路元標’を網羅していたのに、残念な事をしてしまった(-_-)
←ピンク色のポイントが取りこぼした’亀山町’、近鉄沿線でないだけに少々行きづらい。
同じDoBlogの「国道のある風景」のlone_chuck氏はきっちりと資料の整理しているんだなぁ... 見習わなくては。
とりあえ入れ物だけは(^_^;)
昨年秋からフトした事でマイブームになっている’道路元標蒐集’、自転車で紀伊半島の道を走り潰すのも残り僅か、奈良/和歌山/三重県中南部の県道ヘキサ蒐集も先が見えてきたので、サイクリングのツマとしてはなかなか面白いテーマなのである。
奈良県と兵庫県に関しては出版物として資料もあるし、インターネットのお陰で好事家による情報も入手可能で個人的に800基とか600基を訪ね歩いた(歩いた訳ではないだろうけど)御仁もおられる。
道路マニアにはお馴染みの’国道メーリングリスト’では1000件以上の所在リストが更新されているが、道路元標設置の根拠となった’道路法施行令’の大正8年からして、手元の資料によると大正11年には全国には12315もの市町村があったのだから1割にも満たない、まだまだ未知の’道路元標’を発掘する余地は充分にある、と云っても元標の建つ地元ではさして映えない標石は忘れられた存在で、朝な夕なに散歩の犬の絶好のターゲットになっていたりするのですが...
左図は入手できた情報を元に中部から中国四国にかけて現存する’道路元標’の位置をプロットしたものである。
まもなく設置から90年を迎え根拠となる法令が無くなってしまった’道路元標’が時とともに失われてしまっているのは致し方ないが、不可解なのはバラつきが大きすぎるのである、石川、京都、奈良、兵庫の様に相当数が平均的に残っているのに対し、富山、静岡、福井、徳島は皆無、岐阜、滋賀、大阪や和歌山、西日本には異常に少ないのである。
理由として考えられるのは、まず’道路元標’を探そうなんて好事家が少ないので情報にバラつきがある。
現在では根拠法の無い道端の邪魔物を府県毎に道路管理者が積極的に撤去してしまった。
そもそも大正8年の’道路法施行令’により実際に設置するのは各々の地方自治体なのだが本当に全国に12000もの’道路元標’が省令に従った様式で津々浦々に至るまで設置されたのだろうか。
とこのマップを眺めるとつくづく考えてしまうのである。
今ではあるかないかも判らない’道路元標’探しはヘキサ蒐集や丸ポスト蒐集より奥が深いと云うかハマると泥沼なのである、サイクリングの目的に自然や風景に名所旧跡も悪くはないが、昭和と平成の市町村合併に埋もれ忘れられていく近代日本の地方自治と道路網の標石である’道路元標’探索にコースを練る愉しみは当分続きそうである。
※ 図はいわゆる’大正道路元標’を対象としている、明治の里程標や大阪市や和歌山市にある今風のモニュメントとしての道路元標は含んでいない。
※ 緑色は履修済、黒色は最近まで現存していた記録があるが逸失してしまったもの。
古稀に至ってもなお「走」「工」「趣」三拍子揃って三流のサイクリスト。ライフワークは「道路元標」と「自撮り」。なお「■ャリ」等の自転車に対する卑しい言葉をコメント等ではお使いにならないで下さい。